2011年3月20日日曜日

行動を起こす時の敵とは誰か?

僕らが、何か行動を起こす時、必ず“敵”が現れる。

その“敵”は、自分の反対意見を持つ者のことではない。
意見・方向性は同じだけど、程度や優先順位が違う“敵”なのだ―。

「飛行機が墜落の可能性はあるか?」と聞けば、どうだろう?

ほぼ100%の人が、Yesと答えるはず。つまり、Yes/Noで聞けば、同意見なのだ。
では、「どのくらいの確率で落ちますか?」と聞けば、どうだろう?

ここは、意見がわかれるのではないか?

それは、前提(知識、育った環境や価値観)や利害が違うからだ。

前提や利害が違えば、立場は変わる。
違う立場で話しあえば、採る意見も変わる。

また、人は、一貫性にこだわるので、一旦とったポジションから動きづらい。
なかなか行動が変わりにくい。


だからこそ、『調整と決断』が必要なのだと思う。



『調整』が必要なのは、意見を変えるための合意を形成しなくてはいけないから。
『決断』が必要なのは、兵糧と時間が、有限だからだ。

『調整と決断』と書いたが、これは、何もチームの中だけの話でもない。

個人でも、チームと同じような逡巡があるはずだからだ。
ただ、ここで、話を整理したかったのは、こういうことだ。

“目指すゴールは同じ。”だというところに立ち返れるのだとしたら、
議論の仕方も変わってくるのだと思うのだ。

つまり、
①志(方向)は同じ。→
②方法論(程度)が違うだけの問題。→
③だったら、合意できる道は必ずある。

政党はすべからく、「国民生活の向上」を模索し、実行しようとしている。

ただ、優先順位、力の配分が違うだけだ。
だから、本当は協力できるはずだ、立場を越えて。

白か黒の議論はわかりやすい。
ただ、現実は、それで割り切れるほど単純じゃない。

人の個性の数だけ意見があり、それぞれに正しい部分もあるから。
だからこそ、賛否両論の中、批判をも、うまく取り込みながら、
進んでいかないと行けないのだと思う。

そのために、『調整と決断』のレベルが向上し、行動がよりスピーディーになり、
社会と個人が、すこしでも潤いのあるものになってほしいと思う。

それは、リーダーの責任でもあるし、チーム個々人の責任でもある。
意見を言う権利は、もちろんある。でも、それには、本来、責任がともなうはずだ。

自分が考える批判の矛先に、自分なりの改善策を持ち合わせようと思う。
敵との争いは、しょせん50歩100歩なのだから。

2011年3月17日木曜日

町が活気を取り戻す時

その昔、うちの会社の取締役の一人が、
ある雑誌の編集に関わっていた時の話。

阪神大震災がおこった。

彼自身も、被災者だったが、雑誌の復刊のために、被災地をまわり、
色々取材して感じたことを教えてくれた。

ラジオ→新聞→テレビ→雑誌。

これが、被災者にとっては、
重要なメディアの順だと、彼は考えた。

雑誌は、趣味性が高く、最も緊急性の低いメディア。

だから、他のメディアがやるような被災地の報道や、
他の雑誌がやるような被災地を避けた記事づくりをしても、意味がないと考えた。

「神戸に、来て下さい。」

彼が伝えたいと考えたメッセージは、それだった。
それが、雑誌の果たす役割であり、自分の仕事だと。

だから、まだ片付かない店の中で、きれいな食器をわざわざ用意させて、
おばちゃんを元気づけ、料理を盛り付けさせたところを写真に撮った。

電車がつながりはじめ、雑誌を見た人たちが、
たくさん店に押し寄せた。往時の勢いを取り戻すきっかけになった―。

今回の地震と、重なる部分と、そうではないところがあると思う。

いま、“素人が被災地に行くことは、復興の邪魔になる。”とばかりな話が多い。
それは、一面の真実ではあるけれど、また、それだけが真実を映しているとも思わない。

たしかに、素人のボランティアが、現場の混乱をさせることはあったろう。

でも、身内を心配して運んだ食料や自分の知る誰かを助けたいという、
その素朴な気持ちが、人をはげまし、早期の復興につながった部分は絶対あると思う。

人を呼ぶことと、行くことの重要性。

一日も早く、たくさんの人が行き来し、
町が活気を取り戻すよう願っている。