これは、アラン・ブルームの言葉である。
そういう意味において、“教養あふれる社会”とは、
多様性と寛容性に満ちた社会のことを言うのかもしれない。
多様性と寛容性に満ちた社会のことを言うのかもしれない。
左右も、善悪も、行き過ぎるとなんだか、雑に見えてくる。
言っていることがどうこうというより、反論を寄せつけないところが…。
ものごとには、ちょうどいいバランスがある。 |
価値相対主義ではないが、
“価値がある”と思う行動(what)の裏側の理由(why)、
“価値がある”と思う行動(what)の裏側の理由(why)、
つまり、その“思いをくむ”(認めるのではなく)ことは、
全ての人に、平等に与えられるべきものだと思う。
もちろん、だからといって、人の権利を蹂躙する権利を認めるとか、
犯罪者の肩を持つとか、そんなことではない。
今の社会では、誰もが持つ行動の理由(why)を、
どう表現するか(how)において選択があり、
その結果の行動(what)がルールに合うかどうかで、
塀の外を歩くか、内を歩くかが決められる。
To be, or not to be : that is the question. |
その選択ができない状態なので、罪を問えないとされる。)
つまり、現在のルールの範疇を越えたWhatについては、
しかるべきルールに則り、罰せられるべきだと思う。
(そのルールを甘んじて受けたのが、ソクラテスであり、
だからこそ、彼は、自分の意見に、真摯な人間だといえる。)
しかるべきルールに則り、罰せられるべきだと思う。
(そのルールを甘んじて受けたのが、ソクラテスであり、
だからこそ、彼は、自分の意見に、真摯な人間だといえる。)
ただ、Whyに関しては、認められないかもしれないが、
誰もが持つことを許されることを担保しないと、
今の社会で生きる意味も、生きていくこともできないと思う。
(そして、そこに社会全体で汲むべく、新たな考えが存在するかもしれない。
ソクラテスがそうであったように。)
誰もが持つことを許されることを担保しないと、
今の社会で生きる意味も、生きていくこともできないと思う。
(そして、そこに社会全体で汲むべく、新たな考えが存在するかもしれない。
ソクラテスがそうであったように。)
もちろん、自分の意見も、誰かの信念も、結果、人を傷つける可能性はある。
そのことを理解しながらも、それでも尚、自分の意見を言い続けるのは、
意見を言えない環境の息苦しさに、がまんできない体質だからだ。
「見えるものだけが、世界ではない」
そうやって、見えない世界をイメージし、
創り出すことで人間は、成長してきた。
その知の力こそが、人類の発展を支えてきたのだ。
そうやって、見えない世界をイメージし、
創り出すことで人間は、成長してきた。
その知の力こそが、人類の発展を支えてきたのだ。
いずれにしても、“教養”を身につけなければ、
自分が見たい半分の世界しか見えないことになるだろう。
自分が見たい半分の世界しか見えないことになるだろう。
ライフハックシリーズやビジネスモデルジェネレーションで有名な小山龍介さんも、
言葉は違うが、相反する両極端な要素、すなわち、“軸を持つこと”の重要さを仰っていらした。
言葉は違うが、相反する両極端な要素、すなわち、“軸を持つこと”の重要さを仰っていらした。
自分の中に、多様性を持つ。
そのことは、自分と社会を生きやすくするうえで、不可欠だ。
そのことは、自分と社会を生きやすくするうえで、不可欠だ。
あと、実利的なことを言えば、意見の多様性は、武器になる。
まぁ、このあたりは、長くなるので、続きはまた、どこかのタイミングで。
まぁ、このあたりは、長くなるので、続きはまた、どこかのタイミングで。
追記)
友人の朝活王子が、小山さんと、『「結果を出す人」はノートに何を書いてい るのか』
『仕事はできるのに、机がぐちゃぐちゃで困ってるきみへ 』などの
著者 美崎栄一郎さんと対談を企画しました。ご興味のある方は、ぜひ!
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『仕事はできるのに、机がぐちゃぐちゃで困ってるきみへ
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