2013年4月22日月曜日

【教養とは、他の考え方も成り立ちうることを知ることである。】


これは、アラン・ブルームの言葉である。
そういう意味において、教養あふれる社会とは、
多様性と寛容性に満ちた社会のことを言うのかもしれない。

左右も、善悪も、行き過ぎるとなんだか、雑に見えてくる。
言っていることがどうこうというより、反論を寄せつけないところが…。
ものごとには、ちょうどいいバランスがある。

価値相対主義ではないが、
“価値がある”と思う行動(what)の裏側の理由(why)、
つまり、その“思いをくむ”(認めるのではなく)ことは、
全ての人に、平等に与えられるべきものだと思う

もちろん、だからといって、人の権利を蹂躙する権利を認めるとか、
犯罪者の肩を持つとか、そんなことではない。

今の社会では、誰もが持つ行動の理由(why)を、
どう表現するか(how)において選択があり、
その結果の行動(what)がルールに合うかどうかで、
塀の外を歩くか、内を歩くかが決められる。


To be, or not to be : that is the question.
(話はそれるが、簡単に言うと、刑法第39は、
その選択ができない状態なので、罪を問えないとされる。)


つまり、現在のルールの範疇を越えたWhatについては、
しかるべきルールに則り、罰せられるべきだと思う。
(そのルールを甘んじて受けたのが、ソクラテスであり、
だからこそ、彼は、自分の意見に、真摯な人間だといえる。)

ただ、Whyに関しては、認められないかもしれないが、
誰もが持つことを許されることを担保しないと、
今の社会で生きる意味も、生きていくこともできないと思う。

(そして、そこに社会全体で汲むべく、新たな考えが存在するかもしれない。
ソクラテスがそうであったように。)

もちろん、自分の意見も、誰かの信念も、結果、人を傷つける可能性はある。

そのことを理解しながらも、それでも尚、自分の意見を言い続けるのは、
意見を言えない環境の息苦しさに、がまんできない体質だからだ。

見えるものだけが、世界ではない

そうやって、見えない世界をイメージし、
創り出すことで人間は、成長してきた。
その知の力こそが、人類の発展を支えてきたのだ。

いずれにしても、“教養”を身につけなければ、
自分が見たい半分の世界しか見えないことになるだろう。

ライフハックシリーズやビジネスモデルジェネレーションで有名な小山龍介さんも、
言葉は違うが、相反する両極端な要素、すなわち、“軸を持つこと”の重要さを仰っていらした。

自分の中に、多様性を持つ。
そのことは、自分と社会を生きやすくするうえで、不可欠だ。


あと、実利的なことを言えば、意見の多様性は、武器になる。
まぁ、このあたりは、長くなるので、続きはまた、どこかのタイミングで。

追記)
友人の朝活王子が、小山さんと、『「結果を出す人」はノートに何を書いているのか』
『仕事はできるのに、机がぐちゃぐちゃで困ってるきみへ』などの
著者 美崎栄一郎さんと
対談を企画しました。ご興味のある方は、ぜひ!



0 件のコメント: