2011年7月2日土曜日

【早朝ドラッカーSkype勉強会】

facebookを通じて、ご縁を頂いた
「早朝ドラッカーSkype勉強会」に参加させてもらっています。

テキストは、「ドラッカー 365の金言」。
基本的には、その前日の内容をベースに考え、
ディスカッションしますが、変更になることもあります。

前回は、パソコンの調子が悪く、参加直前のタイミングで接続が切断され、
討論に参加できなかった為、以下、自分が考えた内容をレジュメにまとめた。
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7月1日 事業の定義とは:
明確でシンプルな事業の定義が成功する企業の特徴である。

“シンプルな事業の定義”

あれば→どのような背景からか?
シンプルになっていない場合→シンプルにする必要がある。

事業の定義を構成する3つの要素。
①経営環境→社会、市場、顧客、技術
②使命→成果を明らかにする
③中核的な能力(コア・コンピタンス)

【ACTION POINT】
昨日スーパースターだった企業が、
つまずいてマネジメント不能の状況に陥っています。
それぞれの例について、事業の定義に何が起こったのかを考えて下さい。

A【回答】百貨店業界をケースに考えました。
「富裕層にふさわしい高級な商品と価値を提供します」
(と、百貨店の事業の定義を仮定)

①経営環境の変化

社会→高級なものを購入する手段の多様化。ロハスな生き方。
市場→価値観の多様化。競合業態の台頭。百貨店に行くことを楽しむ人の減少。
顧客→富裕層の意識の変化(ステータス観の変化)。中産階級の勃興。
技術→ネットの普及で、楽しい・欲しいもの情報の入手・購入が簡単になった。

②使命:「富裕層にふさわしい高級な商品と価値を提供し、心を豊かにします」
(と、使命を仮定)

③中核的な能力:富裕層の欲求を満たす商品提供者との接点と
それにまつわる情報を収集する能力。

インターネットの普及により、入手できる情報量が増えた。
価値観も変わった。百貨店側(売り手側)、顧客(買い手側)、
双方ともに情報量が増えたが、売り手と買い手の間で、
“価値”という情報ギャップがなくなったため
相対的に百貨店のおける価値は減り、顧客からの期待が減り、
マネジメント不能な状況に陥ったのだと思います。

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自社の事業の定義も、しっかり行い、折を見て更新をしなければならない。
あらゆるものが陳腐化する世界。「すでに起こった未来をみ」つけ、
「自分で未来をつくること」、そこからスタートさせるしかないと思った。

2011年5月5日木曜日

自己と他者の均衡点

自己と他者の関係について、考えてみた。

“均衡そのものが善なのだ。”

村上春樹も、孔子も、釈迦も言っている。
おそらく、これは、正しい。

ただ、“均衡”が善として、“均衡点”をどこに置くか、が、重要なのだ。
社会で生きる上では、“自己と他者の関係の均衡点”を探らなければならないのだ。

“ほぼ”全てのことは、相対化される。

社会において、たくさんのことが、数値化され、比較・相対化される。
だからこそ、人は、絶対なるものを求め、それがあることを強く信じている。

かくいう自分自身も、絶対なものがあると信じている。
何ものにも、換え難いものがある、と。

でも、それは、あくまで、自分自身にとってだけで、
他者から見れば、“絶対”でもなんでもなく、数字に置き換わる。

だから、バランスなのだと思う。
全ての人に、“絶対” と思われるものがあり、それを思考に入れる必要がある。

ただ、思考だけをぐるぐる巡らしていても、おそらく均衡点は見つからない。
それを見つけるには、補助線がいる。

そして、この問題を解く補助線になりうるのは、
自己でもなく、他者まで遠くない誰か、なのではないか…。

具体的には、家族や友人、読書なのだと思う。

だから、家族と話し、友人の意見を聞き、読書に耽るのだと思う。
そして、そのプロセスは、一生続くのだと思う。社会で生きている限りにおいては。

2011年3月20日日曜日

行動を起こす時の敵とは誰か?

僕らが、何か行動を起こす時、必ず“敵”が現れる。

その“敵”は、自分の反対意見を持つ者のことではない。
意見・方向性は同じだけど、程度や優先順位が違う“敵”なのだ―。

「飛行機が墜落の可能性はあるか?」と聞けば、どうだろう?

ほぼ100%の人が、Yesと答えるはず。つまり、Yes/Noで聞けば、同意見なのだ。
では、「どのくらいの確率で落ちますか?」と聞けば、どうだろう?

ここは、意見がわかれるのではないか?

それは、前提(知識、育った環境や価値観)や利害が違うからだ。

前提や利害が違えば、立場は変わる。
違う立場で話しあえば、採る意見も変わる。

また、人は、一貫性にこだわるので、一旦とったポジションから動きづらい。
なかなか行動が変わりにくい。


だからこそ、『調整と決断』が必要なのだと思う。



『調整』が必要なのは、意見を変えるための合意を形成しなくてはいけないから。
『決断』が必要なのは、兵糧と時間が、有限だからだ。

『調整と決断』と書いたが、これは、何もチームの中だけの話でもない。

個人でも、チームと同じような逡巡があるはずだからだ。
ただ、ここで、話を整理したかったのは、こういうことだ。

“目指すゴールは同じ。”だというところに立ち返れるのだとしたら、
議論の仕方も変わってくるのだと思うのだ。

つまり、
①志(方向)は同じ。→
②方法論(程度)が違うだけの問題。→
③だったら、合意できる道は必ずある。

政党はすべからく、「国民生活の向上」を模索し、実行しようとしている。

ただ、優先順位、力の配分が違うだけだ。
だから、本当は協力できるはずだ、立場を越えて。

白か黒の議論はわかりやすい。
ただ、現実は、それで割り切れるほど単純じゃない。

人の個性の数だけ意見があり、それぞれに正しい部分もあるから。
だからこそ、賛否両論の中、批判をも、うまく取り込みながら、
進んでいかないと行けないのだと思う。

そのために、『調整と決断』のレベルが向上し、行動がよりスピーディーになり、
社会と個人が、すこしでも潤いのあるものになってほしいと思う。

それは、リーダーの責任でもあるし、チーム個々人の責任でもある。
意見を言う権利は、もちろんある。でも、それには、本来、責任がともなうはずだ。

自分が考える批判の矛先に、自分なりの改善策を持ち合わせようと思う。
敵との争いは、しょせん50歩100歩なのだから。

2011年3月17日木曜日

町が活気を取り戻す時

その昔、うちの会社の取締役の一人が、
ある雑誌の編集に関わっていた時の話。

阪神大震災がおこった。

彼自身も、被災者だったが、雑誌の復刊のために、被災地をまわり、
色々取材して感じたことを教えてくれた。

ラジオ→新聞→テレビ→雑誌。

これが、被災者にとっては、
重要なメディアの順だと、彼は考えた。

雑誌は、趣味性が高く、最も緊急性の低いメディア。

だから、他のメディアがやるような被災地の報道や、
他の雑誌がやるような被災地を避けた記事づくりをしても、意味がないと考えた。

「神戸に、来て下さい。」

彼が伝えたいと考えたメッセージは、それだった。
それが、雑誌の果たす役割であり、自分の仕事だと。

だから、まだ片付かない店の中で、きれいな食器をわざわざ用意させて、
おばちゃんを元気づけ、料理を盛り付けさせたところを写真に撮った。

電車がつながりはじめ、雑誌を見た人たちが、
たくさん店に押し寄せた。往時の勢いを取り戻すきっかけになった―。

今回の地震と、重なる部分と、そうではないところがあると思う。

いま、“素人が被災地に行くことは、復興の邪魔になる。”とばかりな話が多い。
それは、一面の真実ではあるけれど、また、それだけが真実を映しているとも思わない。

たしかに、素人のボランティアが、現場の混乱をさせることはあったろう。

でも、身内を心配して運んだ食料や自分の知る誰かを助けたいという、
その素朴な気持ちが、人をはげまし、早期の復興につながった部分は絶対あると思う。

人を呼ぶことと、行くことの重要性。

一日も早く、たくさんの人が行き来し、
町が活気を取り戻すよう願っている。