2013年12月31日火曜日

【『銀河鉄道』に乗る前に】


久しぶりに、
『銀河鉄道の夜』を読んだ。

文章の表現だとか、技巧とか、
一旦、脇において置く。

改めて、読んで見た、
僕の疑問は、1つだった。

「なぜ、ザネリでなく、
カムパネルラを死なせたのか?」

という問いだった。

善行が自らに舞い戻るなら、
罪のないジョバンニをいじめる、
ザネリこそ、罰を受け、
励ましてくれたカムパネルラを
殺すことは、道理が通らない…。

これは、宮沢賢治自身の
原罪にも、ぶつかる。

質屋を営む生家は裕福で、
その周りにすむ、農民は貧しい。

その理由がわからず、
彼は自身の暮らしを恥じていた。

自分は何かこの世のために
していないのに、恵まれた環境。
また、真面目に仕事に
打ち込むも娘を身売りする農民。

この違いは何か?

「なぜ、私は私であり、
私は、あなたではないのか?」

彼は、その疑問への答えを、
あらゆるものが、
因縁で結ばれる宗教に
見つけたのではないか?

つまり、答えは、
「私は、あなたであり、
あなたは、私である」と…。

だから、「世界がぜんたい
幸福にならないうちは
個人の幸福はありえない」
と考えたのではないか?

それをわかりやすく
表現するために、あえて
「意地悪な」ザネリを救い、
「優しい」カムパネルラを
死なせたのではないか?

そして、「輪廻転生」で、
妹トシに再び会えるという祈りに
なぞらえたのでないかと。

そう、全ての命はつながって、
永遠に生き続けるのではないか?

一瞬、生きることも、
永遠を、生きることも同じだ。

だから、今をここで
力の限り生き抜かなば、と思う。

いずれ銀河鉄道に乗るのだから。









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