2010年3月18日木曜日

『透明の美しさ』

議論は、透明性の高いオープンな方がいいと言われている。
公平・中立な議論は、オープンだからこそ、できるのだと。

果たしてそうか?

オープンな場での議論でも、根回しを行い、意見のすり合わせなど、
事前に、多数派工作をしていれば、舞台裏で決まっているのと、同じだ。

また、そういう状況を作らせないようにと、参加者を、
特定の者の監視下に置くのは、個人間の通信手段の
発達しているこの時代、特定の場合を除き、事実上不可能だ。

上記の理由から、オープンな場での議論だからと言って、
公正・中立を担保しないことになる。

そもそも、公正・中立は、最高の価値なのか?
むしろ、問われるのは、次の質問ではないか?

1.議論の本質とは、そもそも、何なのか?
2.なぜ、オープンな場での、議論を求められるのか?
3.なぜ、議論をするほうが、しない場合よりいいのか?

上の3つの質問について、一言で答えるとすれば、
議論を行うのは、公正・中立を担保するためでなく、
納得感の醸成と結論の質の向上の為だと思う。

納得感の醸成が、必要なのは、組織の構成員が、決定に関与し、
決定されたことにコミットし、議論を通して得られた結論の実現に向けて、
力を合わすことにつながるからだ。

結論の質の向上が、必要なのは、現在もっている資源を、
最も有効に活用し、最大限のベネフィットを引き出すことにつながるからだ。

だからこそ、そのためにも、最低限、以下のことは、必要だ。

1.決定前に、できる限り、色々な立場の意見を聞くこと。
2.決定したことについて、できる限り、丁寧に説明すること。
3.決定したことの責任を持つ、つまり、成果を出すこと。

結局、議論の目指すものは、「オープン」というポーズではなく、
いろんな立場・階層の人々が、同じ目的を共有し、
その実現に邁進することだと思う。

だから、『ガラス張り』、『透明性』などと形容される“オープン”ということに、
こだわりすぎることなく、物事を決定する人間は、最適解を求めればいいのだ。

透明なものは、透明だから、美しいのではなく、
透明なものが、光を反射し、集約することで、生まれる輝きこそが、美しいのだ。

今こそ、形ばかりの『オープンな議論』から離れ、
本来の議論の意味を、取り戻すべきだと思う。

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