議論は、透明性の高いオープンな方がいいと言われている。
公平・中立な議論は、オープンだからこそ、できるのだと。
果たしてそうか?
オープンな場での議論でも、根回しを行い、意見のすり合わせなど、
事前に、多数派工作をしていれば、舞台裏で決まっているのと、同じだ。
また、そういう状況を作らせないようにと、参加者を、
特定の者の監視下に置くのは、個人間の通信手段の
発達しているこの時代、特定の場合を除き、事実上不可能だ。
上記の理由から、オープンな場での議論だからと言って、
公正・中立を担保しないことになる。
そもそも、公正・中立は、最高の価値なのか?
むしろ、問われるのは、次の質問ではないか?
1.議論の本質とは、そもそも、何なのか?
2.なぜ、オープンな場での、議論を求められるのか?
3.なぜ、議論をするほうが、しない場合よりいいのか?
上の3つの質問について、一言で答えるとすれば、
議論を行うのは、公正・中立を担保するためでなく、
納得感の醸成と結論の質の向上の為だと思う。
納得感の醸成が、必要なのは、組織の構成員が、決定に関与し、
決定されたことにコミットし、議論を通して得られた結論の実現に向けて、
力を合わすことにつながるからだ。
結論の質の向上が、必要なのは、現在もっている資源を、
最も有効に活用し、最大限のベネフィットを引き出すことにつながるからだ。
だからこそ、そのためにも、最低限、以下のことは、必要だ。
1.決定前に、できる限り、色々な立場の意見を聞くこと。
2.決定したことについて、できる限り、丁寧に説明すること。
3.決定したことの責任を持つ、つまり、成果を出すこと。
結局、議論の目指すものは、「オープン」というポーズではなく、
いろんな立場・階層の人々が、同じ目的を共有し、
その実現に邁進することだと思う。
だから、『ガラス張り』、『透明性』などと形容される“オープン”ということに、
こだわりすぎることなく、物事を決定する人間は、最適解を求めればいいのだ。
透明なものは、透明だから、美しいのではなく、
透明なものが、光を反射し、集約することで、生まれる輝きこそが、美しいのだ。
今こそ、形ばかりの『オープンな議論』から離れ、
本来の議論の意味を、取り戻すべきだと思う。
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