2015年1月10日土曜日

1月10日 圧制に代わるマネジメント



自立した組織に代わるものは

全体主義による独裁である。

組織が自立性を失うならば、個人はありえず、
自己実現を可能とする社会もありえない。

自立性を許さない全体主義が押付けられる。
自由どころか民主主義も不可能となり、スターリン主義だけとなる。

自立した組織に代わるものは、全体主義による独裁である。

 全体主義は競争を許さず、絶対のボスを据える。

責任を与えず、恐怖によって支配する。

組織を廃絶し、すべてを包含する官僚機構に吸収する。

財とサービスの生産は、苦役として強制的、恣意的かつ
不経済に行なわれ、膨大なコストの下に低迷するだけとなる。

組織が責任をもって成果をあげることだけが、自由と尊厳への道である。
成果をあげる責任あるマネジメントだけが圧制を防ぎ、かつ圧制に代わるものとなる。

(『マネジメント-課題・責任・実践』)

ACTION POINT
さらに成果をあげるには何をなすべきでしょうか。

※圧制…無理に抑えつける。圧政…権力で抑えつける政治。

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「自立した組織」とは、全体主義による独裁に対する『防波堤』である。」


『防波堤』とは、言わずと知れた外洋から打ち寄せる波を
防ぐために海中に設置された構造物である。

その目的は、波浪から港湾の内部を安静に保つことや、
津波や高潮の被害から陸域を守ること、
あるいは海岸の侵食を防ぐことなどである。

「自立した組織」自身、その構成員自身が、
外部環境から身を守り、内部組織を守り、疲弊するのを防ぐ。

しかし、その『防波堤』も、時と共に劣化する。

今は、自立できていたとしても、
油断をすれば、それがままならない状況になる。

この書かれた時代は、「自立した組織」で、
「全体主義」に立ち向かおうとドラッカーは考えていたのだろう。

「組織」か「個人」か関わらず、
「自立した存在」とならなければ、何かに依存する。

全体主義、もう過去の遺物と思われるかもしれない。

しかし、身の安全と引き換えに、
ボスが考える「全体」に委ねるのならば、
呼称はともかく、内実は同じものと言える。

依存は、ジャッジの基準を歪める。

本当は違うと思っていても、

黙っておこう・・・。
言われている事だけやればいい・・・。
聞いているフリをしよう・・・。

となる。

成果を挙げれば何でも許される、ことでない。

ただ、「成果」を挙げなければ、
「存続」は、脅かされる。

「自立」は生易しいことではない。
また、全てのものに反発することでもない。

だが、「自ら立つ」という気概なくしては、
「自分の意にそわぬ」波に飲み込まれてしまうだろう。




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