2015年1月13日火曜日

1月13日 一般教養としてのマネジメント 


マネジメントとは一般教養である。


 マネジメントとは、伝統的な意味における一般教養である。

知識、自己認識、知恵、リーダーシップという人格
関わるものであるがゆえに教養であり、
同時に実践応用にかかわるものであるがゆえに教養である。

 したがってマネジメントに携わる者は、心理学、哲学、倫理学、経済学、歴史、物理学など、
人文科学、社会科学、自然科学の広い分野にわたる
知識と洞察を身につけなければならない。




それらの知識によって成果をあげなければならない。

病人の治療、学生の教育、橋の建設、ソフトの設計と販売など、
成果をあげることに使わなければならない。

(『新しい現実』)

ACTION POINT 
自らの成長を人文科学や社会科学の学習によってはかるために、
どのような計画をもっていますか。
まだならば今日そのような計画を立ててください。

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「マネジメント」における「教養」とは、のりしろ」である。


「マネジメント」と「成果」について、
悩んだことのある人にとって、
1つの考え方を提示します。

「選択と集中」が大事だと言われるが、
それは、果たして、正しいのでしょうか?

その「選択」が「近視眼的」なものだったら、
その「集中」は「長期的」な成功を約束しない。

しかし、そもそも、株主からの監視の厳しい環境下で、
マネジメントは「長期的」な、
あるいは、
「大局的」な見地に立てるのだろうか?

ここで書かれている「マネジメント」には、
つの側面がある。

1.知識としての「マネジメント」
2.方法論としての「マネジメント」
3.実行者としての「マネジメント」

結局、「経営」とは、取り得る選択肢の1つでしかない。

常に、他の可能性にさらされ、
そことの比較を追及される。

フレーズ1つ、施策1つで、成果が変わる。

だから、迷わないための指針としての「経営理念」がいる。
しかし、金科玉条のように変えないことだけが正しいわけではない。

その狭間を生き抜くために、
「マネジメント」には、「教養」という
"のりしろ"がいる。

"のりしろ"としての「教養」があるから、
現在の選択肢の代替案を探す余裕も、
万が一の時のリカバリーもできるのだ。

仮に、マネジメントに「教養」がなければ、どうなるか?
おそらく、その答えは、独善的なものになる。
さらに、「独善」はいずれ、目を曇らせ、組織を危機に追い込む。

なぜなら、「教養」とは、
「他の考え方も成り立ちうることを知ること」
だから。

知識としての「マネジメント」と正しく向き合えれば、
組織に「幅広い見識」と「共通認識」をもたらす。

方法論としての「マネジメント」を正しく活用できれば、
組織に「成果」と「チャレンジするマインド」をもたらす。

実行者としての「マネジメント」を正しく配置できれば、
組織に「高い目標意識」と「多様性」をもたらす。

教養をもって、成果をあげなければならない。
知識だけでは足らず、成果だけでも足りない。



"武術家なるもの 人と対するに
武術をもって接せず 武徳をもって接せよ
"

これは、小さい頃に読んだ『闘将!!拉麵男』(たたかえ!!ラーメンマン)にあった言葉だ。

マネジメントが「教養」を持つ意味と上の言葉が重なる。

「教養」は、全てが「成果」に還元されうるわけではない。
同様に、「武術」で全ての「人」に対峙するわけではない。

つまり、この武術家のように、"イザ"というときには戦える"武術"を持ちながらも、そのくぐった修羅場や、修行培った
"武徳"で人と接することと、マネジメントが「教養」として
可能性としての"幅広い見識"を持ちながら、全ての"策"を
講ずるわけではないという余裕。

そして、それが、組織の"のりしろ"になるのだと、確信する。

近視眼的なマーケティングに満足せず、
組織に"のりしろ"を持ちたいのであれば、
「教養」を大事にする素養が必要だ。

ちょうど革新的な企業Googleが、
"20%ルール"を持っていることも、
その傍証となるだろう。

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