強烈なインパクトによって、収まり切らない違和感。
アトリエの写真を前に、ベーコンの声を聞く。
フランシス・ベーコンのアトリエ |
「自分の作品は、何も意味しないし、何も語らない。
自分自身も何も話すことはない。
だって言葉で説明できるものなら
わざわざ絵に描く必要なんてないからね。」
ストーリーを作る要素をばっさり、削りとられていることで、
理解されることを拒んでいるのかもしれない。
そういう意味では、このような解釈すら不要なのかもしれない。
また、彼はこうも言う。
「アーティストは、感情のバルブの
ロックを外すことができるんだ。
そうやって、絵を眺めている人たちを、
無理矢理にでも生(life)に立ち戻らせることができるんだよ。」
≪人物像習作 II》1945-46年 ハダースフィールド美術館蔵 |
ガラス一枚を隔てることで、
作品と対象者との間に線をひき、
あえて、その境目を行ったり来たりさせているようだ。
写実的なところと抽象的なところ。
バランスとアンバランス。
計算されたことと偶発されたこと。
二次元と三次元。
聖と俗。
あちらとこちら。
ベーコン自身は、形を正面からみても、
よくわからない絵を描くのに、
写実的なベラスケスの教皇の絵に、
強いリスペクトを持っていたりする。
映画監督のデビット・リンチや
前衛的な舞踏家らに、影響を与えた独特の作風。
このような事実一つとっても、
ものの見方の多様性を感じられる。
《ジョージ・ダイアの三習作》1969年 ルイジアナ近代美術館 |
目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。
これは、展覧会のコピーであるが、それは恐らく、
彼の三幅対にかけているんでしょう。
なかなかうまい。
人間の性的指向は大まかに
異性愛(ヘテロセクシュアル)
同性愛(ホモセクシュアル)
両性愛(バイセクシュアル)
無性愛(ア・セクシュアル)
にわけられる。
そして、ベーコンは、同性愛の芸術家として知られる。
作家の内面、性質、環境が、作品に影響するのは自明だが、
どの部分が、どのように、表出しているか、
とここまで書いても、まだまだわからない…。
これからの人生を通してなのか、いつかわかるのか?
わからないまま、人生を終えるのか?
どうなるかわからない。
そう、人生はわからないもんだ。
わからないものを、わからない。
たまに、そんなものに出くわすのも悪くない…。
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facebookに投稿をした以前のものを、ブログ転載を機に、バージョンアップさせました。
※彼の生涯を取り上げた映画
愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像(1998)
http://goo.gl/xclm5c
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