昨日のブログにコメントで、
>自民党の憲法改正案のやばい所は、思想信条、報道の自由を制約する箇所もある。
>「公益に反しない限り自由を保証する」と条件がついています。
>公益は政府が判断するとしたら、いつでも治安維持の大義名分で
>国防軍が国民のデモを排除できることになります。
>国防軍が国民のデモを排除できることになります。
『公益』、これは、難しい問題。
ここの部分が、『法律』にだったら、
感覚的に、多くの人が納得するだろう。
たしかに、“法律”守らなかったら、
捕まるよね、みたいな感覚で。
捕まるよね、みたいな感覚で。
でも、なんだろう?
『公益』って。
『公益』って。
このあいまいな概念は、一体だれが決めるのが、よいのだろう。
そもそも、決めないといけないものなのか?
そう考えると、あいまいにイメージされているものだらけだ。
「公共の福祉」って、なに?
「ブラック企業」ってどういうこと?
「ブラック企業」ってどういうこと?
『公益』に話を戻すと、
①日本人だけで決める。
②現代人だけで決める。
つまり、
①空間(国境)
②時間(歴史)
この2つの概念で考えようとしただけでも、
「線引き」の問題が出てくる。
そうすれば、絶対に切り捨てられる人々が出てくる。
リソースに限りがある以上、正解はない。
でも、リソースの限界って、なんだろう…。
先人の思いって、なんだろう…。
未来の子供たちの為って…。
未来の子供たちの為って…。
これは、完全にループに入ります。
つまり、“堂々めぐり”だ。
だからと言って、議論をずっと外に置いて、
考えずにいることが良いはずはない。
だって、“権利の上にあぐらをかく者は、法律の保護するところにあらず”って
言うじゃないですか?法律用語で、「懈怠(けたい)」っていうそうです。
ちなみに、仏教用語の「懈怠」は、仏教が教える煩悩の一つで、
善を修し、悪を断ずることにおいて怠るココロ=懈をさすそうです。
日々にいろいろなことが、目まぐるしく起きる。
つい、“緊急じゃない”と、流してしまうことも多い。
でも、そればかりに、気をとられていると、えらいことが起きる。
急に、意に反して、“自由”を奪われる。
そんなケースは、案外、多いと思いませんか?
女性専用車両に、気づかずに入ったときの、あの“冷たい視線”。
これも『気がついたら、もうあった、じぇじぇ!』といった類の話です。
おそらく、アファーマティブ・アクションの一環だと思いますが、
“”それにしたってねぇー。と、冷たい視線を浴びた
立場の男性としては、思わなくもないのです。
いずれにしても、『公益』を考えるうえでの、
“程度”、“バランス”の問題は、とても大事な問題。
“程度”、“バランス”の問題は、とても大事な問題。
だから、議論や自らに問うことを通して、
“合意”を、きちんと落とし込んでいったほうがいい。
“合意”を、きちんと落とし込んでいったほうがいい。
手間はかかっても、やるだけの価値はあると思う。
自分が良いと思う社会に参加するという意味においても。
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