2013年9月23日月曜日

【ちょっと気になるアート入門23 レオ=レオニ 1910-1999】「芸術って、社会に、どう役に立つの?」

以前、facebookに投稿をしたのですが、一部、加筆して、ブログに転載しました。
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スイミー、何回読んでも、勇気づけられる。


レオ・レオニ展、行ってきました。
『スイミー』の作者です。

会場の一角には、『スイミー』の世界を
体験できるようになっています。

ビジョンに映るスイミーたちに、
近づくと、さぁーっと、逃げていく。

しばらくすると、みんなで、
あの大きな赤い魚になるのです。

ははは、俺が、敵の大きな魚ね…。

・・・

彼の絵には、人間がでてきません。

それは、黒人の子どもの絵を見て、白人の子どもが、
「だって、あれは黒人の話でしょ」って終わらせないために。

これは、彼が、裕福な家系に生まれながらも、
ユダヤ系ということで、迫害されたことに関係があるのかも知れません。

(ちなみにどれぐらい裕福かと言うと、脱税を逃れるために、
おじさんがシャガールの絵を隠しに来るくらい(^_^;))

だから、ねずみやカメレオン、
鳥、魚に、語らせるのです。

芸術の持つ力を。
人生に向かうスタンスを。
自分とは自分なんだということを。


のほほんとした、このねずみの一言が、実に深い…。

彼の絵本に、『フレデリック ちょっと かわった のねずみの はなし』という、
詩を紡ぐねずみの話があります。


「芸術って、社会に、どう役に立つの?」って思う人に、
新しい気づきがあるかもしれません。

たしかに、詩はお腹をいっぱいにすることはないかもしれませんが、
言葉は、時として、悲しみや寂しさ、労苦を忘れさせ、
心に希望を与え、前に進む力を与えてくれることもあるのです。

あと、レオ=レオニの人類への大きな発見は、
“時空のあわいに棲み、われらの知覚を退ける植物群”「平行植物」です。

平行植物が長い間、表立ったアカデミズムから異端視されてきたのには理由がある。
平行植物を記録する事が極めて困難であるためである。

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通常、自然物が命名・分類されるには、個体のサンプルが必要となるが、
平行植物の多くは、人が「触れる」とたちまち崩壊してただのチリとなってしまう。

また、写真撮影を試みてもまともに写らないか、まったく写らないことが多い
(ツキノヒカリバナ科のように人の肉眼でも不可視なものもある)。

発見後ほんの一瞬、また数日から数年で掻き消えるように消失する例もあるし、
その逆に突如として出現する事もある(ただし、それは観測者の主観でしかない)。

よって、平行植物の記録は、それらが平行化する前後の化石のような痕跡か、
観測者によるスケッチと伝聞によるしか手段が無かった。 

しかしながら、月光に含まれる「o因子」の発見、ポリエフェメロール・レンズの発明、
特殊な樹脂(ステオフィティシロール)による封入法の開発、カンポーラ研究所による
新たな環境隔離装置の研究などにより、いままで「言葉」でしかなしえなかった平行植物の研究が可能となった。

また、近年はデジタル映像解析やCG、ホログラムなどといった新たな手法が模索されており、
さらなる平行植物学の可能性が期待されている。日本のカメラメーカー「ダゴン」では
生体素子による記録媒体の研究も進んでいる。(wikipediaより)

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そんなものを、どうやって見つけるんだ…。

通常の世界にいる人々の言葉では、
本稿における平行植物に関する事柄・品種名・団体名・人名などは、
すべてレオニによるフィクションである。
ということになる。

「なーんだ、やっぱり。」って思うか。
「いやいや、本当は、あるんじゃない?」って思うのか。

あなたはどう思われますか?






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